【特集】 萩の料理人 「彦六又十郎」 岡本 智之さん

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地元岡山県での飲食店2店舗の経営と売却の話、料理を学ぶために飛び出した世界の話、萩市地域おこし協力隊として活動した3年間について、そして明木地区で仕掛ける地域食材の魅力を伝えるカフェレストランオープンまでの経緯、地域に寄り添い、地域の魅力を伝えるカフェレストラン「彦六又十郎」オーナー岡本 智之さんの歴史を紐解いていきます。

ご出身はどちらですか?

岡山県備前市(旧和気群吉永町)です。育ったところは田舎の山奥ですが、工場もたくさんあるところだったので、萩市の方が素朴な田舎を感じる事ができます。

子供の頃は、どんな遊びをしていましたか?

山の中を探索するのが好きでした。ある日、入ったことのない道をみつけ「ここを行くと、どこに出るのかな」と、歩き回りました。1日中歩いて歩いて、どれだけ遠くに来たんだろう…と、思っていたら、家の近くの通りに出て「1日かけてここ?」と思ったことを覚えています。野生動物も身近でした。鹿もよく見かけましたが、食べることはありませんでした。猪も大人たちが楽しみで鍋にして食べているのを見ていたくらいです。ただ煮込むだけのような簡単な料理だったと思います。萩の人は昔から変わらない料理法一筋で調理しています。なので「猪や鹿が美味しくない」といったイメージを持っている人が多く、その考え方を変える努力をしたいと思っています。さらに新たな調理法でもっと違った楽しみ方ができるという事を知ってもらうために、ジビエの美味しい食べ方を提供できたらと思っています。

ご家族で料理を仕事にされている方はいますか?

いないですね。両親は共働きだったので、子供の頃に自分のご飯を作ることがありました。いろいろ作ったと思いますが、覚えているのは、炒飯を納得できる味(美味しさ)になるまで何度も作ったことです。

おふくろの味のように思い出の料理はありますか?

大好きだった祖母が作ってくれていたケチャップライスです。ぼんやりとした記憶しかないのですが、確か蒲鉾入っていて、てんこ盛りでした。両親が忙しくて留守がちだったので、僕が生まれてから、ずっと祖母がそばに居てくれました。本当にずっと一緒だったので、祖母は居なくならないと思ってました。子供の頃に、人が亡くなることを何度か経験し、理解はしていましたが、祖母だけは死なないと思っていたんです。でも、大学卒業後、日本語教師としてオーストラリアで生活していたのですが、その間に祖母は亡くなりました。家族から連絡があり、危篤だと知らされ、すぐに帰りたかったけど、当時はお金が無くて、安い航空券を探して待っている間に、亡くなってしまいました。現実として受け止められなかったですね。本当に悲しかった。オーストラリアに発つ時、「もう会えないから、行かないで欲しい」と言って、祖母が泣きながら止めてきました。僕は、その言葉の意味をあまり真剣に考えずに「すぐに帰るから大丈夫だよ」と言って発ちました。そこから本当に会えなかったんです。仕事をしている姿も見せることができなかった。最後に話もできなかったので悔いが残っています。不思議なんですが、オーストラリアのプラットホームで電車を待っていた時、現地のおばあさんが線路に落とし物をしたから拾って欲しいと声をかけてきたんです。拾ってあげたら、無言で立ち去ってしまったのですが、暫くして戻って来たかと思ったら、お礼だと言って僕の手に無理やりお金を握りしめさせました。その一連の動作が祖母にそっくりで…その出来事の後にすぐ祖母が亡くなったので、あれが虫の知らせだったのかな?と思っています。もし今、祖母の作るケチャップライスを食べられるなら、それは幾ら出しても食べたいと思う、僕にとってはとても価値のある料理です。

学生時代、部活は何をされていましたか?

中学では野球部でした。高校ではバスケットボール部に入部していました。先輩から「技術的にうまい人はいっぱいいるけど、チームをまとめる人がいないからやって欲しい」と言われキャプテンに選ばれました。

萩市地域おこし協力隊でもリーダーだった岡本さんらしいエピソードですね、高校卒業後の進路はどうされましたか?

中学生と高校生の時に訪れていて楽しかったのと、英語が好きで、それを伸ばしたいと思ったので、オーストラリアに行きました。でも、英語はひとつのツールでしかなく、重要なのは言語(英語)で何をするかという事だと気づきました。それで、下宿先として寝泊まりしていた友達の家を「せっかくだからもっと外を見た方がいいよ」とアドバイスされたのをきっかけに出ることにしました。出たのは良いけど、お金がなかったのと旅の仕方も分からなかったので、野宿からスタートしました。でも、そこからできることが少しづつ増えていきましたね。当時、出会えた人は自分より大人が多かったので、学ぶことが多く、振り返れば良い経験だったと思います。

オーストラリアには、どれくらい滞在しましたか?

約1年です。帰国してから大学の外国語学部に入り英語と中国語を学びました。教職課程も取っていたので教師の道もあり、実際に自分には向いている職業だと思ったのですが、その決断の前にもう一度オーストラリアで色々な経験を積んで、頭を整理してから決めたいと思い、再度オーストラリアに行くことを決めました。

再度行かれたオーストラリアでの生活はどうでしたか?

自分に向いていると思い、日本語教師としての仕事を決めて行ったのですが、「本当にやりたいことがこれ(教師)なのか?」をずっと考えていました。悩みながら過ごしている中で、オーストラリア人の接客に感銘を受けました。ホールの人たちの「人を喜ばせる仕事の仕方」に感動したんです。僕はもともと、ネガティブ思考で、「相手がどう思っているのか」をずっと考えていたり、緊張していると思ったように発言できずに、後でいろいろ考えてしまうことが多かった。日本の接客もとにかく人を傷つけない事が主流になっている。でも、その時にオーストラリアの接客から感じた「どうしたら人を喜ばせられるか」という思考が、僕の中ではとてもポジティブに感じられ、僕もこの仕事で人に喜んで欲しい!と強く思い、飲食の仕事をすることに決めました。

その後は、そのままオーストラリアで飲食に携わる仕事をされたのですか?

その後は、オーストラリアを離れ、語学の通じないインドネシア、中国、チベット、ネパール、インド、パキスタンに10か月くらい周遊していました。行き当たりばったりで、現地の飲食店に入り食べて美味しかったら飛び込みで「キッチンに入れてくれ」とお願いして入り、手伝ったりしながら見て学びました。ボランティアで学校を回って英語を教えたりもしていました。

それ以外に料理の勉強をされたことはありましたか?

料理学校での勉強はしていません。海外の現地で、美味しいと思った料理を教えてもらい学びました。当時は全てを犠牲にして、ずっと料理のことを考えていましたよ。その後、帰国してからは地元のイタリアンレストランで働きました。田舎なのに、すごく美味しいピッツァを出していることに感動したからなんですが、オーナーから時間が空いている時にピッツァ作りを教えていただきながら、約3年ほど働きました。その後、地元を離れて岡山市内にカフェを出しました。

イタリアンのお店で勉強されていましたがなぜカフェを出したのですか?

バーテンダーの一人ひとりを大切にする職業に憧れていましたが、お酒が弱いのでバリスタならそれに近いと思いカフェにしました。そこは一人ひとりと向き合えて、お客様に喜んでもらえるお店にしたいと思っていました。カフェを開店して数か月は、2階にあったお店につながる階段にまで行列ができ、忙しくて睡眠時間は1、2時間が当たり前の毎日でした。スタッフは20名くらい雇用していたので、基本スタッフに任せていました。でも、だんだんと当初考えていた理想から大きくズレてきてしまい、どうしたら理想の経営ができるかを悩みながら、オープンから2年6か月くらいでスタッフが好きなようにできるお店に変えて、自分は岡山市内の駅前にイタリアンバルのお店を作ることにしました。そこでは個性は出せましたが、自分が経験したことしかできなくて、別の苦しさが出てきました。またさんざん悩んで、今のままだとダメだと思い、料理の勉強の名目でヨーロッパに行くことにしました。自分はイタリアンのお店を運営していましたが、イタリアで学んだことがなかった。だけど、周りのイタリアン店オーナーはイタリアに行って学んでからお店を持っていたから、僕も実際のイタリアで学びたいと思いました。

すごい展開ですね!お聞きしていると「料理の勉強」というより「自分探し」という感じの方がしっくりくるイメージですね。

そうですね、結果を考えるとそうだったのかもしれません。旅としてまずは、トスカーナに行きました。本当は最低でも1年間は居ないと年間を通じた食材の料理が学べないとは思いましたが、当時すでに年齢も30代で、家族も居たため時間の余裕が無かったので、技術よりもその土地にある文化や精神性を学ぶことを優先させました。トスカーナとピエモンテは州としてはすごく近いけど、料理は全く異なります。もしも、それぞれの料理が混じり合っていたら、技術は向上したかもしれないけど、混じり合わなかったからこそ、それぞれの土地でしか食べられない料理ができた。それが理由もあり、それぞれがわざわざ訪れたくなる町になったと思います。料理以外の事でも言えますが、一つひとつと向き合わないと、良いものができないと僕は思います。

世界を旅しながら学ぶ途中に影響を受けたメニューはありますか?

影響を受けたメニューはセビチェ(※1)だったり、ポルトガルのアレンテージョといってアサリと豚肉を合わせた料理、あとはオーストラリアで同居していたイスラエル人が作ったヨーグルトにワサビを合わせたもの、チェコ人が握ったマグロとを黒ビールにつけてリンゴと合わせたお寿司などたくさんあります。彼らの自分が持っている思考力を使うことが、自然に出来る感覚は凄いなと思いました。最近ではオーストラリアの新鋭的なブッシュ料理(※2ここでは伝統的なブッシュ料理の説明をします。)を食べたいと思っています。

※1 セビチェ…ペルーの名物料理で魚介類のマリネ。

※2 ブッシュ料理…オーストラリアの先住民アポリジニが食べてきた食事や食材のことで、「未開の自然」を意味し、そこで見つかるカンガルーやクロコダイルなどの野生動物、植物、スーパーフードに属する天然ハーブやスパイスやベリー類、魚介などを使った料理。高たんぱく低脂肪の野生の肉や魚は基本焼くだけのシンプルな料理で、良質で高い栄養素を含んでいる。

その後、旅はどうなりましたか?

イタリアのあとはイスラエルのナザレ、ポルトガルのポルト、ポルトガルのナザレ、ペルーのリマに行きました。ペルーは「料理の勉強で、次に行くならどこがいい?」とポルトガル滞在中に地元の料理人に聞くと、多くの人から「今、行くならペルーだよ。」と言われたので行きました。ペルー料理は「もさい※」と表現されるように基本のペルー料理はシンプルなんです。そこに多民族が入り込んできて、それぞれの土地の料理がゆっくりと混ざり合っていき、今のペルー料理が作られました。また、多様な気象条件もあり、多種多様な食材を手にすることができます。時には誰も知らないような食材が持ち込まれたりもして、それを料理していました。

各国の店舗でそれぞれ特色がありました。あくまでも僕の感じた勝手な特色ですが、ポルトガルは、戦力としてみてくれるので望まれていることを考えてやっていったら、僕のような新人でもまるで総料理長みたいになっていました。ペルーは、有名店のシェフに憧れて世界中から料理人が集まっていたので、いつの間にかピラッミッド階級ができて、仕事ができない人からも指図されたり、駒使いのように扱われていました。また、そのシェフは素材を解体して構築する世界観を持っていて、食材を切るのに1mmも誤差が出ないように物差しを使っていました。だから、たくさんロスも出るし捨てるところも多かった。でも、そこで働いている間に、建物を見ても料理に見えるようになっていたことに、ある日気づきました。それはきっと、シェフが元々建築家だったことを活かした料理をしていたからだと理解した時に、「完全に術中にはめられたな」と驚かされました。

ポルトガルのナザレにあるお店で、料理人たちと料理のことをいろいろと話せる機会があり、そこで腹を割って話しているうちに、純粋に料理が好きだった頃の気持ちを思い出せて、日本でやっている業態は、本意ではないことをしっかり自覚しました。その後、日本に帰ってからすぐに2店舗売却しました。

※もさい=格好悪い・垢ぬけしないこと。

軌道に乗っていたお店を売却されることに迷いはなかったですか?

収入はそれなりに得ることはできたけど、結局、お金では満足できなかった…ということが分かったのです。人一倍コンプレックスが強いので何でも人と比べてしまう癖があるのですが、他の人と比べてできないと思ったり、実際にできなかったりすると、「自分はダメだ」とネガティブな気持ちがとても強くなってしまいます。でも、できなかったことができるようになったら嬉しいので人一倍努力します。

売却時はご家族に反対はされなかったですか?

最初は驚かれましたが、気持ちを伝えると理解してくれました。

世界を経験して帰国されてからはどのような活動をされていましたか?

帰国した時はやる気に満ち溢れて需要もありました。周囲からも「次に何をするんだろう?」と期待もされ海外で働く話もありました。しかし、子どもが生まれて、家族と過ごせる時間を何よりも大切に思っていたので、家族時間を確保するためにアルバイトで生活する選択をしました。そのアルバイトでも、せっかくだから魚屋で働こうと応募するけど、経歴や年齢から落とされたり、人として扱われていないような経験もしました。そうして、2、3年経った頃、友人である萩市地域おこし協力隊OB吉田さんを訪ねて萩市を訪れた時に、ここで料理したいと思い、家族と話し合い萩市に来ることを決断しました。

萩市地域おこし協力隊になった経緯を教えてください。

協力隊OBの吉田さんから協力隊のことを教えてもらい、協力隊として活動することに決めました。都会に住んでいると、ふらっと海に行って漁師さんから「船に乗ってみるか」と言われることなんて当然ないわけです。だから、協力隊として活動をして、生産者とつながりを持てたことは嬉しかったです。漁師さんがいて新鮮な魚が獲れて、じゃあそれをどう料理するのがいいのかなと考えるやり方が良いかなと思っています。今振り返ってみて、協力隊の活動は楽しかったけど、特に最初は何も生み出していないのに、給料を貰うことが非常に心苦しかったことを覚えています。

他の萩市地域おこし協力隊にはない岡本さんの強みはなにですか?

我があっても、人の話を聞く事に力をいれてきました。アルバイトの時に今までの経験が通用しない場面を幾度と経験して、打ち砕かれたことや接客業だったことが強みになり相手を気持ちよくさせることがここにつながると思います。

地域おこし協力隊として上手に活動する方法を教えてください。

地域の人は何十年もずっと同じ生活をしているから、第三者から見るとすごいことも誰からも褒められないので、良いものは直に口にするように常に心がけていました。来てちょっとしか住んでいない移住者が、逆に褒めて欲しいと言う態度を見せても難しいと思います。後は、十分に活動説明をすることも大事だと思います。他には、都会にあるものが良いものだと思われているように感じます。例えば、ディズニーランドをここに作っても本場には勝てないように、ここにあるもので価値を証明していきたいです。そのためにもっと地域の人と一緒に話をしていかないといけないと思っています。そこはこれからの課題ですね。

地域おこし協力隊に応募を検討している人へのアドバイスを教えてください。

すでに個性を持っている隊員は存在しているのに、どこかかみあっていないところも感じます。それによってもっと面白いことができるのに勿体ないと思うこともあります。個々ではなく、誰かと一緒に何かしたいという想いがないと、人も寄ってこないと思います。ただ、想いがあっても人が寄って来ないのは、厳しい言葉かもしれませんが、魅力が足りないのかもしれません。それと地域が求めていないのに勝手にやっていることもあると思うので「もっと人に聞けば良い」と思います。それに「何のためにやっている活動」かを説明する必要もあります。だから、もっと地域の人に寄り添うことができる人なら誰でもいいと思っています。難しいけど、居場所をつくるためにも、今まで築いてきた肩書などは全部捨てて素の自分になることも大切だと思います。

 

お店をこの場所(明木)に決めた理由を教えてください。

ここに決めたのは、駐車場が作れて敷地もあり果樹もたくさんある。それに田んぼ広がっていて、景観も良いからです。お店を造っている時も周囲の多くの人が「こんなへんぴな場所に人は来ない」と思っていたと思います。駐車場もそんなに要らないと言われたけど、今では駐車場が足りない状態になっているし、ありがたいことにたくさんの人が来てくれていることを見せることができたのは、良かったかなと思っています。でも、なぜこんなに人が来ているか?などを理解してもらうためにもっと話をしないといけないと思っています。

お店の名前を「彦六又十郎」にした理由を教えてください。

「彦六又十郎」に決めたのはいくつかの候補から、地域の利益を重視した両人のようになりたいと思ったからです。

萩市の食材について感じていることを教えてください。

萩市の食材が美味しいのはもちろんですが、他と違う凄いと思うところは、食材の種類が豊富なことです。食材が豊富だからこそ、いろいろな組み合わせできて、そこから美味しい食べ方を提案していくことが、僕の役割だと思っています。これからやりたい料理は、茹でて出汁にするだけで十分美味しいつがに(モズクガニ)をソースに使ったり、ジビエ料理とかです。農業にも挑戦したくて、地域の新たな力になりたいから、簡単ではないけど小麦を作って、製品にしたものをお店で使ったり、販売もしていきたいと思っています。ミシュランの獲得よりも、地域のものを使って地域の人に喜んでもらえることをしていきたいと思っています。これまでは、見たことのない世界を見たいから、そのためにはどんな事でもしたし、努力もしてきました。でも、今はそれこそこの明木の風景を見ながらコーヒーを飲めたらいいと思うようになりました。新しい食べ方を提案して生産者さんに喜んで貰えたり、明木が盛り上がって地域全体の喜びを一緒に作っていきたいと思っています。

今後のお店の展開などを教えてください。

飲食店は苦しい業界で、岡山で商売していた時も、せめて利益を上げてスタッフに還元する方法を考えていました。しかしお店の形が出来上がった後では大きな変化を作る事はなかなか難しく、長い目で考えると課題がたくさんありました。しかし、それをリセットする事ができ、どうやったらスタッフも幸せに生きていけることができるかをベースにして経営をリスタートする事ができました。まずは、週4お店を開けて十分な給料を確保する事ができるようになるのが目標です。その仕組みで、良い人材を萩市に呼べるような好循環を生み出していきたいと考えています。お店も地域のポテンシャルを十分に引き出すために、もっと価値観・文化を売れる店にしていかないと意味がないので、一過性で終わらないように努力しないといけないと思っています。

最後に料理に興味を持つ子供たちへのメッセージをください!

良くもあり、不安定でもある世界だけど、五感を使って人を喜ばせることができる仕事です。日本にも、もっと人を喜ばせることができるお店が増えると嬉しいですね。

店舗情報については、

⇒食べる/彦六又十郎をご覧ください。