【特集】 萩の料理人 「MARU」 小祝 琢誠(こいわい たくみ)さん
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萩の食材やお酒が味わえる創作居酒屋MARU。人とのご縁を大切にして、若いパワーで萩市を盛り上げていきたいと熱い気持ちをお持ちの小祝琢誠さんにお話をお伺いしました。
ご出身はどちらですか?
萩市です。高校卒業まで萩市で過ごして、東京の大学に進学しました。
大学ではどのようなことを学ばれていましたか?
子どものころはTVが好きで、バラエティ番組をよく見ていました。その影響からバラエティ番組の放送作家を目指そうと思いました。TVの仕事なら都会に行けばあると思っていたので、東京の上演芸術学部※にあるパフォーミングアートを専攻する科に進学しました。
※上演芸術…演劇、歌舞伎、ミュージカルなど、舞台や空間上で行われる芸術の総称。
放送作家を目指されていたのですね、実際にその業界に就かれましたか?
仕事といえるかわかりませんが、大学の夏休みでテレビ局が主催しているイベントのアルバイトをしました。それ以外ではラジオ番組の大喜利コーナーが好きだったので、それに投稿をしたけど一度も採用されなかったことも覚えています(笑)。NHKの爆笑オンエアバトル※という番組もよく見ていて、出演者たちのネタに勝手に採点をしていました。
※爆笑オンエアバトル…1999年3月27日から2010年3月26日までNHK総合テレビで放送されていたお笑い番組。観覧審査員の投票でオンエアが決まる、番組独自の審査方法が特徴。
芸人になろうと思ったことはなかったのですか?
ネタは書いていましたが、大学の授業で漫才をしたくらいです。その漫才はゼミの同期とコンビを組みました。本当はボケを担当したかったけど、ツッコミを担当しました。ネタ内容は芸人のオードリーがやっているような感じでした。
大学卒業後の進路はどうされましたか?
大学には、僕以上にTV業界のことをストイックに学び進路を考えている仲間がたくさんいて、その本気度の違いから向いていないと思うようになりました。その思いが強くなっていた大学3年生のときに「いずれ萩に戻って両親が創業したMARUを継ぐかもしれない」とふとした瞬間に思うことがありました。でも、まだちゃんと継ぐことを決心できなかったのと、継ぐことになったとしても「サラリーマンの経験も役に立つ」と思い、東京にある運送系の会社に就職しました。料理とは関係ない職で約1年間働いて、24歳の秋くらいに飲食のバイトをはじめました。
どのようなジャンルの飲食で働かれたのですか?
和食・中華、カフェダイニング、ダイニングバーなどいろいろしました。仕事に慣れたら、日によって日中はカフェダイニング、夜に中華などと掛け持ちをしていたから、睡眠時間は平均2時間ほどでしたよ。
何故そんなストイックな生活を過ごされていたのですか?
とにかく生活するために必死でした。そのころは料理を好きでしているというよりも、生活のためにしているという感覚でしたね。でも、いよいよ萩市に戻りMARUを継ぐことを現実的に意識しはじめていたころでもありました。
萩市には、いつ戻られたのですか?
26歳の冬です。それまで必死で働いて、睡眠時間もろくに取れない生活をしていたら体調を崩してしまいました。そのときは、飲食業が好きのに「飲食業をしたくない」という気持ちになってしまっていたので、1度辞めてゆっくりしようと思いました。慣れ親しんだ地元の環境でなら、ゆっくりのんびりできるかなと思って萩市に戻ってきました。それと同じころにMARUで長く働いていた人が辞めるタイミングも重なり、両親もお店をどうするかと悩んでいたのもキッカケでした。ところが、萩市に戻ってきたらすぐに元気になり、ゆっくりするために戻ってきたのに3日後には働いてました(笑)。東京にいたときにはじめた趣味が、サーフィンなのですが、せっかく海がある萩に戻ったのに、忙しくて4年間ぐらいはできなかったほどでした。2年前くらいから少し落ち着き、やっと行けるようになりました。MARUでも使用しているKAMITAMArice(お米)を作られている原さんとはサーフショップで知り合い、今は一緒にサーフィンもしています。
MARUの創業について教えてください。
父は東京出身ですが、地方で飲食店をしたいと思っていたようです。それで母が萩市の出身だったので、こちらに戻り平成5年にMARUをオープンしました。
名前の由来を教えてください。
まるを記号で書くと〇になります。お客様と生産者さんとのご縁が1つの場所(MARU)で繋がり、そこで萩の食を味わえるように、ということから父がつけました。
MARUが大事にされていることはどんなことですか?
僕は移住者も含めた萩の地元の人に、まず満足して頂きたいと思っています。そして地元の人が、萩に来られた観光客と一緒になって盛り上がることができると面白いと考えています。萩の食材やお酒を地元の人や萩に来られた観光客の方にに味わっていただいて、萩のもの・ことをより多くの人が知るキッカケになるお店でありたいです。
子どものころに料理を手伝ったりしたことはありますか?
子どもの頃は食べることは好きでしたけど、料理をしたことはありませんでした。それに当時は両親の職場であるMARUに行ったこともほとんどありません。料理は大学に進学して一人暮らしをはじめてからするようになりました。
大学生になって作られた料理はどんなものでしたか?
スーパーで売られている冷凍の5食入りうどんを、1食ずつ味を変えて食べたり、バイトしていた飲食店の先輩の料理を見よう見まねで作ったりしていました。それで足りない調味料はバイト先から借りて帰ってました。そのころから手を込んだことはしないけど、同じ食材を飽きずに食べる工夫はしていました。
お店の味に活かされているおふくろの味はありますか?
両親がお店をやっていたので、おばあちゃんの家で過ごすことが多かったですし、休日は外食に連れて行ってもらうことが多かったです。なので、おふくろの味は母親の料理ではなくて、おばあちゃんが作ってくれた料理になります。特に、豚バラともやしをお店で使っているステーキソースで炒めたものが、美味しかったことを覚えています。
メニュー作りで意識されていることはありますか?
両親の代から引き継いでいる「萩の食材を使う」ということは変えていませんが、今まで使っていなかった萩産の珍しい野菜などを取り入れているようにしています。今までメニューになかった「アジの南蛮漬け」も、そのままではなく味付けに一工夫加え、お洒落な見た目にしてお出ししたりしています。
メニューはどのようにして考案されていますか?
他のお店に食べに行ったときに、美味しいと思ったり印象深かったものをアレンジして試作しています。特に、福岡県の飲食業界は萩市と同じくらいに美味しい魚料理が食べられ、全体のお店のレベルの高さを感じて良い刺激を受けています。その他では東京に行くときは、飲食店の仲間にお勧めのお店を紹介してもらって食べに行ったりしています。それが新しいメニュー作りの時のアイディアとして役立っています。
MARUのおすすめのメニューを教えてください。
良く注文して頂けるメニューは萩焼でご提供している「蛸壺」と「見蘭牛の握り」です。萩の魚は美味しいから、刺身も良く食べて頂けます。朝、シーマートから直接仕入れて、母と捌いています。魚の中でも萩でお勧めは甘鯛です。甘鯛は、県外だと焼きものや混布締めされたものが多いですが、やっぱり刺身が一番良いと思います。刺身でご提供できるのは鮮度が良い証拠なので、そういう意味でも萩の魚の美味しさがわかると思います。
新しく「深夜食堂」をめしやぶちの大将とはじめられましたがその理由を教えてください。
もともとドラマで観た「深夜食堂」に憧れがありました。しかし、萩の深夜帯は食事と飲酒が出来るお店があまりありません。この現状が続くと萩市全体が活気のない街になってしまうと思い「萩の飲食業として何か面白いことができないか」と、めしやぶちの大将に提案したら協力してくれることになり実現しました。
深夜食堂のウリはなにですか?
テーマを「深夜のやさしい食」と題していることから、身体に優しい食材を使った料理で、お酒を飲んでも次の日にはお酒を残さず楽しんでいただきたいというところです。
深夜食堂のメニューを教えてください。
週替わりですが、メインは数種類の小鉢を盛り合わせた「やさしいプレート」に、ご飯または玉子粥&豚汁をセットにした「やさしい定食」¥1,500です。それと、MARUとめしやぶちの人気のツマミと深夜食堂オリジナルの単品メニューがあります。是非、一度覗いてみてください。
深夜食堂の営業時間を教えてください。
毎週土曜日の0時~4時(L.O.3時30分)です。
お店の通常営業でされていることと深夜食堂の違いを教えてください。
通常営業とは違い萩にこだわったものばかりではなく、自分がやりたい料理を好きにやらせて頂いています。また、めしやぶちの大将と一緒にすることで、アイディアが増え料理の幅が広がっています。共通しているのは、お互いのお店で通常営業とは違う料理が出来るところで、そこが一番の魅力です。
小祝さんはUターンですが、萩の街の印象は変わりましたか?
子どもの頃は、萩の夜もまだ賑わっていた印象があります。それと東京で「萩は閉鎖的な街」だと思われていることが多いと感じる事が多かったです。でも、実際には腹を割って話すと優しくサポートしてくる人も多く、魅力のある人が多いと思います。そのような人と人とのご縁を広げて大きな輪(MARU)にして、萩にある良いところを若い人たちにもっと知って欲しいです。
次世代の子どもたちに伝えたいことはありますか?
料理をやりたい若い子がいたら、喜んでどんどん挑戦させてあげたいです。現在は高校生のバイトは入れていませんが、将来的には「調理師専門学校に行きたい」と考える人や、「お店を持ちたい」という人がいたら協力したいと思います。極端な話になりますが、料理を作るだけなら誰でもできます。それをお客様にご提供するためには様々な工程があります。その一連の工程を知ることが大切であって、ただ料理を作るだけより楽しいと思います。MARUのスタッフにはそれを実践して頂いています。また、僕は調理師の免許とふぐ調理師免許を持っていて、母は管理栄養士の資格があるので専門的なことを伝えることもできます。
最後に将来の展望を教えてください。
都会にもお店を出したいという夢があるので、東京に進出したいです。そのために、様々な課題はありますが、1番はお店を任すことができる人を育てたいです。若く夢があって、同じ意識を持てるような人がいいです。
店舗情報については、
⇒食べる/萩の酒・萩の肴 MARUをご覧ください。