萩のつくり手 <第16回>
「忠小兵衛蒲鉾」 田中 真司(たなか まさし)さん
安政2年に初代忠小兵衛が創業した、かまぼこ作りの伝統を守りながら新しい挑戦を始める(有)八代目忠小兵衛蒲鉾
166年続く伝統の技法と味を守り、継承しながらも八代目からはじめる新しい挑戦「はちのたね」について、熊本からの移住者であることから自らを外国人枠と名乗る田中 真司(たなか まさし)さんにお話をお伺いしました。
どこで生まれてどのような子供時代を過ごしましたか?
生まれは熊本県水俣市です。子供の頃は野球一筋でしたよ。父親は、亡くなる寸前まで野球をしているような野球バカでした。僕が小学生だった時はコーチだったし、その後も中学校で監督をやっていました。少なからずその影響はあると思いますが、僕が野球を始めるきっかけは、小学生の時に野球部のキャプテンだった同級生に誘われたからです。ゴムボールとプラスチックバットで野球をして遊んでいる時に誘ってきて、その時は、よく聞こえなくて理解してなかったのですが、「うん、わかった。行く、行く。」と適当に答えていたら、それがチーム入らないかっていう誘いだったらしくて(笑)。でも、小学校3年生から高校卒業まで続けました。ポジションは中学までピッチャーで、最後はショート。肩は強かったんですよ。ちなみのその同級生は、小中高と野球部のキャプテンでした。
高校卒業後は何をされていましたか?
高校卒業前、その頃は就職難で進路指導室にあるファイルには、1枚しか紙がなく就職先が2つ書いてあるだけでした。選択がなくても、実家は出ないといけなかったし、とにかく入れば安泰みたいなことを言われている会社だった、地元の有力企業に就職しました。入社してすぐに有給が20日くらいもらえるような、待遇がいい会社だったけど、本当は進学したかったし、単純に会社に行きたくなかったから、4月入社して最初の2ヶ月で有給を使い果たして、9月に辞めました。化学肥料を製造する会社だったので、体調も悪くなり、それも辞めた理由の1つでした。
会社を辞めた後は何をされていましたか?
会社を辞めた後は、何がしたいんだろうと自分探しをするように職を転々としていました。そんな時、26歳の頃に遊びに行った鹿児島県で、高校の2つ上の先輩に、10年振りにたまたま会ったんです。僕はその当時はトラックに乗って、ルート配送の仕事をしていました。先輩のご実家は熊本で蒲鉾屋を営まれていて、その蒲鉾屋で豆腐も作っていたので、先輩は豆乳ゼリーを作って催事などで販売する会社を起業していました。「良かったらうちで働くか。」と誘って貰えて。仕事で全国に行けるのだったら、色々な物の見え方や考え方や出会い、人脈ができるんだなと思って2つ返事で「お願いします。」と言いました。それからは催事の仕事にどっぷりでした。
先輩の会社ではどのようなことをされていましたか?
当時は豆乳のゼリーと蒲鉾屋の天ぷらを催事で営業しながら売っていました。仕事は売り場を探しつつ、デパ地下の週替わりコーナーに入り込んだり、飛び込みで入って交渉していました。後は知り合いの社長から紹介してもらって、営業に行っていました。その社長は、とても影響力のある人で、僕自身もたくさん勉強させて貰いました。
田中さんと言えば営業マンというイメージがあります。その営業に欠かせないコミュニケーション能力はどのようにして身につけたのですか?
コミュニケーションは会社に入社した時は、今のようにはできませんでした。最初の1年はほとんど喋れなかったし、売り上げも伸びませんでした。でも、ある日梅干しを売っている営業マンの売り方を見た時に、ショックを受けました。僕が百貨店で働く時に一番最初に連れて行かれた博多の大丸で、そこで「百貨店ではこうあるべき」と挨拶と話し方と接客を叩き込まれましたが、そのセオリーでは絶対にNGであった接客法を、その営業マンはお客さんにしていたんです。「どう最近?」「買っていく?」みたいな感じで。しかも信じられないくらい売り上げる。例えば僕が10万円を売っている時にその人は60万、70万円も売っている。そんなにお客さんがたくさん来ている訳でもないのにです。さらに百貨店なのに、お客さんが商品を買ったらハンドベルを鳴らすんですよ、「カランカラン!お買い上げー!」って。シーンとしている場だから、お客さんは一斉に見ます。それがまた売り上げに貢献している。全てが衝撃でした。それまで僕がやっていたこととは真逆なことをやって、それが爆発的に売れている。「これだ!」と思いそれからこう言うスタイルになりました。百貨店側からも一切怒られなかった。会社から阪急、阪神百貨店の大阪にある本店だけは、ちゃんとしてくれと言われてましたけど、あえて赤い時計をして真っ白いスニーカーで行きました。はじめは怒られるかなって思ったけど全然怒られませんでした。お客さんからは「ここ阪急よ!赤い時計なんかして。」って言われながらも、それで逆に顔を覚えて貰えて数字も伸びました。お客さんとの距離が近くなると共に売り上げも伸びたと思います。もちろん地域によってやり方は変えますし、温度差を感じながらトークを変えるとか口調とか喋り方とか間とかは、現場に入ってから考えていました。それができるようになったのは2、3年してからです。すぐはできなかったです。後日、売り上げが上がった時に社長から、本当は辞めさせようかなと思っていたと言われたんです。最初のやり方の頃、社長から見ると無理しているように見えていたらしくて。だから、その梅干し売りとの衝撃的な出会いがなかったから辞めていたかもしれません。
当時、日本全国に行かれていたと思いますが、田中さんがここなら誰にも負けないと思っていたエリアを教えてください。
大阪、岡山、札幌、東京池袋ですね。その会社は僕が入る僅か半年前に立ち上げられたばかりで、当時まだ知名度もなくて。僕の下に3、4人いましたけど、それぞれが受け持ちの百貨店がありファンがいてみたいな感じでした。例えば誰かの受け持ちのところを、次はこの人がやりますって言ってもバイヤーさんから「え!いつもの人は来ないの?」みたいな反応をされます。
営業マンに必須のコミュニケーション能力ですがどうしたら苦手ではなくなりますか?
よく本に書いてあるような「相手を褒めて聞き出そう」とかは、元々人見知りもある僕には難しかったです。今では想像しにくいと言われますが、人と喋ることが嫌いで小学校ではクラスで存在感が薄かったです。1番分かりやすいエピソードを打ち明けると、その当時のあだ名が「幽霊くん」でした。アトピーがひどくプールにも入れないくらいだったから肌も真っ白でしたし。でも、ある時に友達から「田代まさしと名前が一緒やん」ってことで「マーシー」と呼ばれるようになって、そこから徐々にみんなと話しができるようになりました。そうなると不思議とアトピーも治ってプールも野球もするようになれたので、精神的な問題だったのかなとも思います。でも、その後中学3年間もまたイジメられていて、友達に無視されたり呼び出されたりしました。同級生にそれをされるのがとても辛かったので、父親に転校させてくれと言ったくらい学校に行きたくなかった。野球部ではエースだったけど、ベンチでもプライベートでも孤立して誰も助けてくれませんでした。本当に辛い中学時代でしたよ。高校生になってイジメもなくなり、中学時代を振り返っては「なんでイジメられたんだろう?」と自分と向き合い考えました。そこで、もしかすると自分に原因があったのかもしれないと思ったんです。それまでは、全部を他人のせいばかりにしていたけど、はじめて自分に向き合って考えた時に、自分を出せなかった事に気づきました。中学卒業から暫くして、あの時の事を同窓会で友達に聞くと、いつも「そうだよね」としか言わないから何を考えているか分からなくて、まるで友達の真似をしている風に見えていた。と言われました。でも素直に話せて「あの時はごめんね」とも言ってくれたので、やはりコミュニケーションは大事だと強く思うようになりました。
学生時代にそんなことがあったんですね。その経験が営業に活かされていると思いますか?
セールス時代は、当然華やかな表舞台みたいなところもあれば、それとは逆に黒い裏世界みたいなところもありました。誰かが売れると次から誰かが来れなくなって仕事がなくなる。それが現実で、でも僕もその誰かのためにわざと売らないってことはできない。売れるようになると妬みも出てくる。商品を隠されて営業妨害されたこともありました。そういう時に皮肉にも中学3年生だった頃を思い出して「やっぱり自分を出さないと!」って最初は義務的にやっていましたが、だんだん習慣化して今の僕になっています。
普通なら逃げるところを糧にして活かしてのですね!営業で成果を出されていたようですが、その後はどうでしたか?
その会社には26歳から33歳まで在籍して、営業と新人の育成をしていました。営業では、ダウンを着て県外に出たのにTシャツで帰ってくると言うように、半年間くらいは戻らず全国の百貨店を2、3周回っている感じでした。あそこの百貨店に行ったらあのバイヤーと飲み行こう、こっちの百貨店に行ったらこの営業マンと食事に行こう…とか、はじめはそれがすごく楽しくて、そんな仕事環境も気に入っていたのですが、30歳すぎた時に40歳になっても同じことできるかなと疑問に思いはじめました。会社に入ってから確かに会社は大きくなっているけど、その先のビジョンは共有できていないことにも不安があったので、先を考えて「辞めます」と伝えました。それでもスケジュール調整などがあったので、実際に辞めたのは約3年後の33歳の時でした。
その後はどうされたのですか?
僕の知り合いで物事をズバッという兄貴的存在の方が居るのですが、その方から「マーシーは絶対違うことをやったほうがいいよ。それだけのスキルがあるのだから。もしもやりたいことが分からないなら俺といろいろ一緒に考えよう」と言って貰えて、提案して頂いたのが、地元のお茶やフルーツで色をつけて、ルービックキューブをイメージしたチーズケーキを作り販売することでした。提案されてからずっとやりたいと思っていたから会社を辞めることにしたのですが、現実化するには資本力やある程度商品のネームバリューがないと営業もなかなか難しいとわかっていたので、他にも一緒にやってくれる人が欲しいと思っていたところ、別の人が手を差し伸べてきました。この人は僕がそれまでに出会った何百人の中で唯一全部腹の中を喋れる3、4人しかいない内の1人でした。でも、結果としてこの人に裏切られて全部がダメになりました。結構凹んで人を信用できなくなったりして、しばらく立ち直れなかったです。
具体的に教えていただけますか?
会社を辞めた後に、一旦その人の会社に行き、そこで仕事をやりながらそのチーズケーキの企画とか店舗とかを決めていこうという話だったのですが、その会社に行くと会社の体制も全く違って、社長がちょっとでも嫌だと思ったら連絡が取れなくなることが頻繁にあって、それが初めは何のことかよく分からず理解できませんでした。会社でもずっと無視されるから「何かしたかな?」と思って従業員に聞いたら「昔からあんなんですよ。田中さんにはいい顔してたんじゃないですか。」と言う。そういうことが積み重なったある時に、社長が初見の人の意見を聞いて同感し、いきなり僕に「やる?辞める?どっち?」と詰めてきたんです。それまで溜まっていた不信感や、我慢してきた様々な事が爆発して、全てが信じられなくなりその会社を去りました。最初に提案して頂いた兄貴的存在の方からは「マーシーの夢はそんなものだったの?」と言われて、さらに落ち込みました。本当ならそこでこれをバネにしないといけなかったのでしょうけど、気持ちに余裕が一切なくなってしまい、その後2年間くらいその兄貴とも音信不通になりました。
そんな出来事があったのですか。その後はどうされたのですか?
人生に対して無気力になって「今の状態で働いてもすぐに辞めてしまうんじゃないかな?」と余計なことばっかりを考えて、そのまま1、2ヶ月くらいはそんな生活を送っていました。当時の彼女だった今の奥さんが、忠小兵衛で広島に催事で行くことになり、時間を持て余していた僕も同じ時期に広島に行きました。奥さんは、催事で昼間仕事しているけど、その間僕は何もないからコンビニに入って無料の冊子を見て時間を潰していました。と、その無料の冊子に書いてあった「司法書士について」の記事がやたらと目について、それに惹かれました。会社に勤めてある程度経つと後輩から「これからどうしたらいいんでしょうか?」とか「こういうことやりたいんです。」等と人生相談みたいなことをされるじゃないですか。相談に対して、それまで読んで印象に残っていた本の内容をそのまま言ってたんです。それがさも自分の言葉のように。(笑)ところが、面白いことにそれを聞くとみんな夢を実現していって実現できた人から「田中さんのあの言葉のおかげです。ありがとうございます!」って言って貰えたんです。その時は、勝手に自分は会社の相談役だと思っていたのですが、コンビニの「司法書士」の記事を読んで、街の相談役みたいなことだと思ったんです。僕にピッタリの仕事だなと。
そこから司法書士になることを決めて勉強されたのですか?
司法書士になろうと決めた時には合格率のことを知らなくて、後から合格率2、3%だと知りました。その時には既に教材買って勉強やバイトも始めていたので、後に引けなくなり勉強したけどなかなか難関でした。初めの頃は、電子部品を作る派遣社員で夜勤をしながら、日中勉強する生活だったんですけど、途中から通勤時間に1時間30分くらいかかることが無駄に思えて、会社に寮がある働き口を探したら、山口県の会社に条件が当てはまるところがあったので、山口県に移り住みました。2017年に子どもを授かったのを機に結婚して萩にきました。
結婚してから忠小兵衛蒲鉾に就職されたのですか?
結婚して萩に来た時は、忠小兵衛蒲鉾の長男も一緒にいて3兄弟と社長で経営されていました。僕はその時は、早く司法書士になって福岡や広島等のある程度都市部に行って、仕事や勉強をしたいと思っていました。でも、その考えを変えてくれたのは実の父親でした。父親は僕たちが結婚式を挙げる前から癌を患っていて、状態はかなり悪かったです。松陰神社で挙げた僕たちの結婚式には、気力を出して出席してくれました。でも、帰ったら即入院して2週間後に亡くなりました。父親は普通のサラリーマンだったので、葬儀の参列者は身内ぐらいなはずですよね?ところが500~600人くらい来てくださったんです。なかには東京からや、22、23歳の若い子も来ていました。よくよく聞くとみんな野球の教え子だった人でした。僕は父親の葬儀で、何と言うか…父親には勝てないと思い知らされたんです。その時、僕は「自分の好きなことばかりして奥さんのことも聞かず、これから子どもが生まれるのに何をやっているんだろう」と考えさせられました。それで、何が何でも司法書士になってやろうとさらに頑張っていました。人生のターニングポイントになったのは、2019年の11月です。奥さんが多忙になり精神的にも相当キツくなったんでしょう。ある時「今の状態が続くなら辞めるしかない、でも忠小兵衛蒲鉾は好きだからできるなら続けたい」と打ち明けてくれ、悩んでいることを知りました。奥さんが22、23歳の時に、急に七代目であるお父さんが亡くなっています。その後八代目になるまでの10数年間の空白の時間も含めて、今までずっと走り続けて来てました。その奥さんの気持ちを無視して、今まで通りに自分の思いだけで、司法書士を目指して勉強するのはどうなのだろうと、思うようになりました。それに司法書士は何歳でもなれるけど、この仕事は今しかないと思ったので「僕が忠小兵衛蒲鉾で働くのはどう?」と聞いてみました。奥さんは、とても喜び賛同してくれて忠小兵衛蒲鉾に入職させて頂きました。今でも覚えていますが、僕の最初の忠小兵衛の仕事は「萩ふるさと祭り」でした。久しぶりの催事イベントだったのですが、1時間くらいしたらすぐに感覚が戻って来て、手応えを感じた時にやっぱりこっちが向いてるのかなと思いました。
忠小兵衛蒲鉾に入職された時の気持ちを教えてください。
初めての環境の時はマイナスイメージから入ることが多いことや、以前に蒲鉾屋の会社で製造も手伝っていたので、仕事に対する不安はあまりなかったように思います。それよりも対人関係の不安がありました。仕方ないことですが「長女の旦那」という立場に見られるのでそれは気になりました。でも、僕も他の人と変わらないサラリーマンですからね。
具体的にはじめははどのような仕事をされていましたか?
入った時は仕事を覚えてなんぼと思っていたから、1年間は製造を学ぶことで営業する時に役立てようと思っていました。それがコロナウィルスが流行して、そうも言っていられない状況になり、商品の販売も落ちていき当然製造も時間を持て余すことになっていきます。それでもお店を続けるためには、売る場所を確保しなければなりません。アフターコロナを考えて動くことで製造以外は何でもやるスタイルになりました。
生活様式がコロナウイルスによって変わったことから、萩かまロールや萩かまバーガーを田中さんが商品開発されたのですか?
勘違いされている人が多いのですが、萩かまロールや萩かまバーガーは2010年頃からイベントで販売していました。常時買える商品ではなかったので、浸透していなかっただけだと思います。美味しいのに売らない理由を聞くと「売る場所がない」「時間がない」「スペースがない」と言われました。もちろん入社してすぐに10数年働いている奥さんに強く言えるはずもなく、どこか勿体無いという気持ちだけがありました。それがコロナウィルスによる緊急事態宣言によって学校が休みになり、お母さん達がお昼ご飯の支度などに困っている様子を複数聞いていたので、萩かまロールや萩かまバーガーのデリバリーを始めました。その時お客さんからの「わっ!萩カマロールを家で食べれるんだ!毎日食べれるのですか?」と喜んで頂ける声を聞き、需要があることに奥さんも気づきました。そこでどうやって販売しようかと悩み、萩bizの獅子野さんに相談したところ、一緒に計画を考えて人脈も繋げて頂けました。そこからの展開は、今でも信じれないくらいに早く進みました。だから、良い意味でビビっている自分もいます。
10年前から販売されているのは知りませんでした。その萩かまロールや萩かまバーガーの味について教えてください。
どちらの商品もイメージは子どもが気軽に食べれるおやつのような商品です。味については定番のチーズやプレーンは当時と一緒だと思います。はぎマルシェが始まってから今まで商品化していなかった明太マヨやブラックペッパー。それに夏みかんなどの季節限定商品なども販売するようになりました。商品開発は8代目が考えているので、まだまだ世に出ていない商品もあると思います。萩かまバーガーに関してはごぼう巻きのタレを使用しています。これは忠小兵衛蒲鉾が100年近く継ぎ足してきた秘伝の味です。萩かまバーガーのレシピを知っていた先代の七代目が急に亡くなってしまった為、今の社長が伝え聞いたものから試行錯誤して作らなければならず、なかなか納得の味にならなかったのですが、いよいよ継ぎ足してきたタレも残り僅か…のところでようやく納得できる味ができたと聞きました。そういう意味で本当に大変な苦労を重ねて継承してきた味です。
蒲鉾は萩市のローカルフードになります。そこではじめて忠小兵衛蒲鉾を食べた時の感想を教えてください。
最初に忠小兵衛蒲鉾の蒲鉾を食べた時は衝撃でした。熊本にいるときはどこの蒲鉾も一緒だと思ってましたが、ここの蒲鉾は他県とは違う食感と弾力、塩加減も本当にバランスが良くて、同じ鱈を使った蒲鉾でも他とは違います。詳しい製法は一部の人しか知りませんが、エソが水揚げされた連絡が来る・すぐにエソを取りに行く・一つひとつ職人の手で捌く、そして出来上がりまでに3日かかります。出来上がったとしても、納得できないものは忠小兵衛蒲鉾のブランドを守るために商品化しません。商品化されなかったものは、今後はアレンジを加え、美味しく仕上げて、「はちのたね」の商品にしていく予定です。蒲鉾の食べ方のお勧めとしてはそのまま食べるのが最も良く、お酒の肴にもピッタリです。
新店舗のお話が出たところで、新しくはじめられる「はちのたね」について教えてください。
まず、「はちのたね」は奥さんの思いを店名にしました。それは、昔々本店で天ぷら作りで余った蒲鉾を、通りかかる明倫小学校の子どもたちにあげていて、学校帰りに蒲鉾を食べて育った人が、70、80歳になった今もお店に来てくださる。「あの時、じいちゃんから蒲鉾をもらったよ」と話をされる。ただ品物を売って終わる関係じゃなく、思いを込めて蒔いた種が実をつけるように、何十年先もこの種まきのご縁がずっとずっと繋がっていきますようにと願いがこもっています。七代目が蒔いた種のご縁が今も繋がっているように、八代目の種も、小学生で萩かまロールや萩かまバーガーを食べて大人になり結婚した時に「ちっちゃい頃にここの商品食べよったんよね」そういう思い出話しと一緒に、新店舗で販売させて頂く商品が「はちのたね(八代目の種)」としてお客さんの記憶の中に、忠小兵衛蒲鉾も代々伝わっていく実として残れば嬉しいです。先代の七代目であるお父さんと仕事をしているのは、実は兄弟で奥さんだけなんです。でも、急に亡くなってしまったので、何とかしなければというプレッシャーや不安感に襲われながらも、それまでどうにか会社を守ってきた彼女には、きっと僕も知らないような苦労が色々とあったと思います。奥さんは僕と違って多くは語らないですけどね。新店舗は親しみやすい空間になっているので楽しみにしていてください。
「はちのたね」のロゴもすごくカッコイイですね!どのようにデザインを決めましたか?
ロゴに書かれている八を囲っている線は蒲鉾板を表していて、八枚目からだけ椿の芽が出ています。これはみんなで守ってきた忠小兵衛蒲鉾の歴史を大事にしていきながら、同時にこれからの八代目はそこからちょっとだけ芽を出して違うことをやっていくということを表現しています。
ここからは田中さんのことについていくつか質問させてください。いきなりですが趣味は何ですか?
趣味はカメラです。すっごい楽しいです!事業計画書を立てた時に、これからSNSは無視できないと思いました。そこで改めて忠小兵衛蒲鉾のSNSを見直すと、フォロワーが500人くらいで、写真を見ても何を伝えたいか分からないものでした。SNSでは写真がとても大事です。そのため先行投資でカメラを購入しました。写真をプロに撮って貰えば当然綺麗だけど、納期までに時間がかかったり、「この瞬間!」と思う良い場面を撮れなかったりするので、僕が写真を撮ることにしました。それからどんどんカメラの魅力にはまっています。それに僕が写真を撮ると、奥さんも「もっとこうしたら良いんじゃない?」などと意見が言えるのでそれも良いかなと思います。
萩市の伝統産業を後世に伝えるために子どもたちへのメッセージはありますか?
例えば、「1番これをやりたい!」と思うことは「1番楽しい!」ことだと思うんですよ。だから、何かレールを引くよりは「美味しかった!」「楽しい!」などの単純な感情を大切にするだけで、そこから先は子どもが感じ行動します。だから大人が先回りして何かしてやらないと、と思うことは意味がないと思います。
最後に田中さんの今後の展望を教えてください。
事業計画書を立てるときに10年先までと思ったけど、奥さんに比べるとまだまだ忠小兵衛蒲鉾をよく知らないので、まずは5年計画を作成したそのうちの1年が今です。先ほどお話ししたように、「はちのたね」から新しい世代へ代々受け継いていける様なストーリーをお伝えしました。それというのも現実に若い世代は蒲鉾を買わなくなり、お中元などもしないようになってきています。また、萩市の方なら忠小兵衛蒲鉾はある程度知って頂けていますが、市外になると認知度は極端に下がります。実際に店舗に携わっている周南市の空間デザイナーの方も、仕事を依頼するまで忠小兵衛蒲鉾のことを知りませんでした。その方は普段は包丁を持つこともない人でしたけど、忠小兵衛蒲鉾を家で食べるために「板から蒲鉾を外すために、包丁を握ったよ。」と冗談交じりに言い「本当に美味しい!」と、萩に来る度に買って頂いています。これから「はちのたね」を盛り上げて自力をつけたら、僕は忠小兵衛蒲鉾を広めるピカイチになりたいので、僕の武器である営業で頑張りたいと思っています。戦略を実行する人間になって、萩市外にもどんどん販売していきたいと思います。
初の試みとなるカフェ空間を店内に設けた新ブランド「はちのたね」も始動します。「萩かまロール」や「萩かまバーガー」をはじめ、おやつやお惣菜などテイクアウトもできる魅力的なメニューを、是非ご賞味ください!
萩のふるさと寄付
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基本情報
会社名又は個人名 | 忠小兵衛蒲鉾本店 |
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住所 | 〒758-0061 山口県萩市椿陣ケ原 2757-1 |
電話番号 | 0838-22-0457 |
URL | https://chukobee.co.jp/ |
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