萩のつくり手 <第24回>
「奥富屋(おくどみや)」 奥富 智昭(おくどみ ともあき)さん

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萩市内スーパーや道の駅などで、おなじみの商品「奥富屋」のキクラゲ。大のキクラゲ好きだったことから、キクラゲ栽培を開始した奥富 智昭さんは、萩市三見(さんみ)地区で、家族とともに、シイタケ栽培を軸に、米やタマネギ、100種類以上の野菜を、愛情たっぷりかけて生産しています。そのフィールドは、畑にとどまらず、多忙を極めているよう。地域活動にも熱心に取り組み、「やるなら極めたい」という奥富 智昭さんにお話を伺いました。

 

―今日は、スーツ姿。とてもお忙しそうですね。

今年大学を卒業して就職した娘と高校3年生の息子がいますが、萩高校のPTA会長と山口県公立高等学校PTA連合会の副会長をしています。それで、毎月のように県庁などへ教育関係の会議に出ています。それから、取引先との会合もあり、今日はスーツ姿です。とはいえ、平成21年(2009年)に萩にUターンするまでは、営業職に就いていて、毎日スーツでした。

 

―Uターンしてから14年目となるわけですね。それまでは、どうされていたのでしょうか。

高校までは萩市に住んでいて、大学進学で宮崎県に行きました。大学では、観光を専門に学び、資格も取りました。当初は、旅行会社への就職を希望していたのですが、やはり、山口県内で就職したいと思い、また、人に会うことが好きだったので、自動車の営業職へ就きました。営業職のときは、休みの日も働くくらい仕事人間で、営業成績は県内でトップ5にも入っていました。そんな生活を10年間しました。実は、そのころ、お客さまとして出会ったのが妻です。

 

―出身地は、どちらですか? どのような子ども時代を過ごされたのでしょうか?

萩市三見地区で生まれ育ちました。年子の弟がいます。両親は共働きで勤めに出ていたので、祖母の世話になることも多かったです。小学校、中学校とスポ少で野球をしていました。

 

―萩に帰郷したきっかけや創業の経緯を教えてください。

両親は二人とも勤めに出ていましたが、そのかたわら、平成10年(1998年)にシイタケの栽培を始めました。寝る暇もないくらい忙しくなり、母も勤めを辞めて、シイタケ栽培に専念するようになりました。当時、すごくがんばっていて、私が働いていた宇部市でも、そのシイタケが販売されていたし、評判もよかったのです。それも、大きな後押しになりました。

その後、父が一時期病気になっただけでなく、父方、母方どちらの祖母も、介護が必要になってしまい、母が一人で背負わなくてはならなくなりました。弟は、関東で働き、家庭を持っていたので、母を助けなくてはと思い、Uターンを決めました。平成21年(2009年)、娘が小学校へあがる直前のタイミングで戻ってきました。とはいえ、サラリーマンをしていた時代から、経営者になるのが目標でした。結果、この道で実現させたことになります。

 

―萩に帰郷したときの印象は?

萩を出た18歳の頃と、大きな違いは感じなかったのですが、18歳の視点と大人の視点とで、見方が変わったと思います。故郷は自分の原点なので、もう逃げ場はないし、覚悟を決めてやろうという思いでした。

 

―Uターンしてから、どのような道のりを歩まれたのでしょうか?

最初は父に雇ってもらって、シイタケ栽培の弟子入りするところから始めました。そして、人生は一度きりなのだから、自分が本当に好きなものを作ろうと、キクラゲ栽培の事業を立ち上げました。キクラゲが大好きなのです。酢豚に入っていたら、豚肉より主役に感じるほどですね。キクラゲはビタミンDや鉄分が多く、とても体にいい、まさに「パワーフード」なんです。

「奥富屋」という屋号をつけてキクラゲの事業をはじめてから10年目になりますが、最初の2年間は、販路が開拓できていなかったので、苦労しました。今のようにSNSでどんどん知ってもらえるような時代でもなかったし、スーツを着て、ホテルやスーパーマーケットなど色々なところに営業に出ていました。

 

―「奥富ファーム」でも「奥富農園」でもなく、「奥富屋」という屋号にしたのは、なぜですか?

歌舞伎が好きだったので、そんなノリにしてみました。PTAの会議などで発言していると、「奥富屋!」と歌舞伎の舞台のように、かけ声をかけてもらったこともあります。

 

―キクラゲの事業を始めるにあたって、施設などに大きな投資をされたのでしょうか?

シイタケ栽培の施設を利用したので、大きな投資はしていません。もともと、シイタケの施設は、父が兼業農家としてやっていたナスを栽培していた施設でした。キクラゲを始めて、シイタケは規模を半分にして、キクラゲに注力するようになりました。でも、一度シイタケで大失敗したことがあります。シイタケは菌床に合わせて、適切な温度と湿度管理をして培養します。ですが、かつてないほど夏が高温になり、高温障害で出荷するはずの200万円分のシイタケの菌床をダメにしてしまったのです。申し訳なさでいっぱいでしたが、父は、「まあ、ええ勉強や」とひとこと言っただけでした。

 

―萩に帰郷して、転機となった出来事は何だったのでしょうか?

長女が小学校2年生のとき、突然PTA副会長をすることになりました。その後、会長になり、萩市のPTA連合会の会長を引き受けたり、山口県の連合会の副会長を引き受けたり、途中休憩した期間もありましたが、小、中、高校と長年PTA会長の役割を担いました。もちろんボランティアですが、子どもたちのため、地域のためと思って、一生懸命取り組みました。そうするとすごく楽しめましたし、結果として、農家として、山口県内たくさんの保護者に知ってもらうことになりました。それが、ファンを増やすことにもつながったかもしれません。

 

―地域での活躍が、販路開拓にもつながったのですね。

それはあると思います。今年、下の息子が高校3年生になり、いよいよ最後のお役目となりました。最初は、仕方なく引き受けていたPTAの役目でしたが、最後だと思うと、生徒さんの成長に感動してしまって、全ての学校行事で涙が出そうなほどです。消防団にも入っていますが、このような地域活動によって、いい仲間ができ、いい刺激になりました。萩に帰って、いろいろな人と出会えたご縁によって、本当に助けられたし、運が良かったなと思います。

 

―人とのご縁によって、影響を受けたことはありますか?

PTA連合会の飲み会のときに、「萩たまげなす」ならぬ「たまげなば」を作ったらいいのでは? なんて話が出ました。「たまげなす」は、びっくりするほど大きく、おいしいナスですが、「たまげなば」は、びっくりするほど大きな「なば」つまり、きのこのことです。1個100g以上あるシイタケを「たまげなば」として作ろうと、3年かけて商品化しました。春と秋だけしかない限定商品です。これは、ふるさと寄付の返礼品や、「道の駅 萩往還」など、限られたところでのみ販売しています。人との縁によって、このような商品のアイデアがいただけたと思います。

 

―生産している食材・産品とその特徴を教えてください。

キクラゲのイメージが定着してきましたが、シイタケは親の代から30年以上やっているもので、それなりの生産量があり、年間8種類作っています。また、野菜は100種類以上作っています。これは、母の力が大きいです。母は50歳を過ぎてから農業を始めましたが、母の野菜栽培の腕は本当にすごいです。タマネギも5~6種類、お米も作っています。スイカとイチゴ以外は、ほぼなんでも作っています。キクラゲは、生か乾燥が人気で、食感が良く、シンプル調理でおいしく食べられると思います。

 

―何人が働いているのでしょうか?

平常は、両親と私たち夫婦、アルバイト1、2名の5〜6人で回しています。タマネギの収穫など農繁期は、親戚などにお手伝いに来てもらって10人くらいでやっています。適材適所で、それぞれが、今必要なことを自主的に作業している感じです。生き物を扱っているので、365日休みなしですね。

 

―大切にしていることは、何ですか?

みなさんに喜んでいただくことです。やっぱり愛ですよね。全てのきのこ、野菜、果物を愛情たっぷりに育てていますし、男女とか関係なく、全て恋愛のような関係性だと思っています。キクラゲとお客さまとの関係も。いろいろな飲食店ともコラボしていますが、取引先との関係も、全て愛だと思っています。

 

―儲かる農業の秘訣や、新規に始める人へのアドバイスをお願いします。

儲かる農業は、本当に難しいです。正解は一つではないし、簡単にこれが正解と言うことは出来ません。ですが、先人に学ぶことはできるので、うまくいっている人のことをよく研究して、参考に取り入れるのがいいと思います。

 

―これからチャレンジしたいことは何ですか?

来年、「奥富屋」としてのキクラゲの事業が、10周年を迎えるので、何か楽しいことにチャレンジしたいなと色々と考えています。まだ、具体的なことは言えませんが、どうぞお楽しみに。

―自然豊かな三見地区で、愛情たっぷりの萩きのこ、萩野菜などを育てている「奥富屋」さんの今後のますますのご活躍にご期待ください!

 

基本情報

会社名又は個人名 奥富屋
住所 〒759-3721 山口県萩市三見2264
電話番号
URL https://www.instagram.com/okudomiya/
販売場所 アトラス萩、キヌヤ、サンマート、市内スーパーや道の駅など

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