萩のつくり手 <第11回>
「萩の塩屋」 金 優(きむ う)さん
「萩の塩」の原料は日本海、萩の海水です。採取場所は椿群生林の麓、萩市椿東虎ケ崎です。海水は15km離れた市内の釜場まで運ばれ、直火で40時間じっくり焚き上げます。釜焚き中は手作業で不純物を除去しながら塩の結晶を待ちます。栄養塩類(ミネラル分)が自然のまま凝縮された塩です。まろやかな味わいが特徴です。株式会社 柚子屋本店の創業者で現在は同社相談役、「萩の塩屋」の金 優さんに塩製造についてお話をお伺いしました。
ご出身はどちらになりますか?
現在の下関市豊浦郡西市です。そこで生まれ育ち、中学校1年生のときに家族で萩市に移転し、現在の萩市立東中学校に転校しました。
萩市に転校されてからはずっと萩市で過ごされましたか?
高校卒業後に大阪に就職しました。大阪では職を転々としながら5年目の1970年(昭和45年)に、現在はもうありませんが、関西外国語短期大学米英語学科二部(夜間コース)へ入学しました。23歳の時です。勉学を志したものの経済的困窮に耐えられず、2年生の春から1年間休学、そして復学しました。ところが、2年生に在籍していた秋頃に病気入院中だった父親が死を目前にしていることを知り、家業を継いでいた母を手伝うために萩市に戻りました。
家業はなにをされていましたか?
いわゆる廃品回収業です。入院前の父は鉄屑や段ボール等何でも扱っていましたが、母は「萩空瓶」という屋号で空瓶回収業をやっていました。
家業を引き継いで起業されたのですか?
家業を引き継ぐつもりは無かったです。「在日」と呼ばれる私たち韓国人や朝鮮人は、昔から日本企業には就職できない環境ですから、職業の選択肢も限られています。それで、「在日二世」や「在日三世」は、そのまま家業を継ぐことが一般的な生活手段となっていました。しかし当時の私は、「在日」が家業を継ぐことは、自己の発展性を否定することになると思い否定的なこだわりを持っていました。その反面、日々の経済生活を考えるといつも憂鬱でした。そんな悩みを抱えつつ29歳で韓国へ行き、本国女性と結婚をします。翌年5月に長男が生まれると、いよいよ家業を本気で考えるようになりました。その年の11月、一升瓶の空瓶を2tトラックに満載にして市内の橙酢(ポン酢)製造工場に納品に行きました。瓶代金を受け取るときでした。当時70歳代の工場主・吉岡東作さんが私に「カネシロさん、ポン酢を販売しちゃくれませんかのぉ?」と、か細い声で話しかけてこられました。「もう、わしも歳じゃからのんた…、きつい仕事やし息子らも萩にゃ戻らんちゅうとるから、ポン酢の製造も今シーズンで止めようかと思っての。カネシロさんのような若い人がやる気になってくれりゃ、もう少しはやれるが…。儲かる商売じゃあるがのんた…」それ以上は聞き取れない小さい声でした。とっさに私は、その言葉の意味を考えていました。そしてそれは私にとって、「神の声」に違いないと思えたのでした。その瞬間、「はい、やらせていただきたいです。」と言ったのでした。そして、その翌年の1月から、ポン酢の販売事業を開始することになります。
具体的にはどのような仕事でしたか?
1978年(昭和53年)正月5日からポン酢の販売事業を開始しました。この日は前の晩から雪が積もり、30数年振りの大雪だとラジオが報じていました。私は大雪に驚きましたが、自分が決めたことをやり抜く覚悟でしたから、予定通りオンボロの軽トラックに一升瓶の橙酢を10本入りの木枠で15箱、合計150本を積んで、益田から鳥取方面に向けて国道191号線を出発しました。ポン酢の販売先は料理屋と旅館です。具体的な仕事は、ポン酢の一升瓶を味見用に1本手に掲げ調理場に入ります。そして、料理長にポン酢の味を見てもらうのです。味を見てもらうことができれば、販売はほぼ可能でした。というのは、その頃の業務用ポン酢は柑橘酢(クエン酸系統)と普通酢(酢酸系統)の混合品が多く、瓶の封を開けて香りを嗅ぐとツーンとくる「酢のタチ」が匂うものがほとんどでした。これに対し、持参のポン酢は橙と夏みかんの果汁を混ぜた柑橘酢ですから、酢酸系統の「酢のタチ」は全くありません。この解りやすい違いが「品質が良い」と理解されて、販促に大きく役立ちました。結果は完売に近い売り上げでした。工夫した点は、1箱10本単位で買っていただくことで、1つの店で売上金を多く確保したかったからです。
ポン酢の販売以外にされていたことはありますか?
ポン酢以外には、夏みかんの果皮を鶴や亀のような縁起物に型抜きしたものをグラニュー糖で煮詰め、1kg瓶に入れて結婚式場向けに販売しました。しかしこれは、あまり売れませんでした。ポン酢の販売先は、未端ユーザーの料理屋から次第に東京築地の場外市場や兵庫・大阪・京都などの大きな青果市場の卸売りに移っていきました。しかし、冬時期は料理屋で鍋物が好まれポン酢の需要もそれなりにあるのですが、春からは暖かくなるにつれてだんだんと売れなくなります。そこで、ポン酢以外の商品開発をする必要があったのです。。
ポン酢の製造はいつ頃から始められましたか?
創業2年目の秋からです。吉岡東作さんが小さな食品工場の跡地を借りられるように手配してくださり、食品製造許可を得てポン酢のほか夏みかんジュース、夏みかんマーマレードを製造するようになりました。製造方法はすべて吉岡東作さんから教わった技術を基本にしましたが、柑橘の苦みが出ない絞り方などいろいろ試しながら自分で工夫や改良をしてきました。創業3年目の1981年(昭和56年)2月に、株式会社柚子屋本店の前身となる有限会社金城商店を設立しました。
「柚子屋本店」の名前の由来を教えてください。
もともと、ポン酢は山口県の橙、大分のカボス、徳島のスダチというように、産地ごとに特徴のある柑橘で占められています。しかし、全国的視野で需要拡大を見据えた場合、地域色の強い柑橘は排除されやすいものです。その点、香りが華やかな柚子は地域性にとらわれていません。私は、飲食業界ではきっと柚子の需要が伸びるだろうとずっと思っていました。それで、柑橘加工業者であるということが社名でイメージできるように「柚子屋本店」に社名変更しました。それまでの株式会社カネシロでは、いったい何の会社かイメージしにくかったでしょうからね。
そうだったんですね。名前から商品をイメージしやすいですね。
社名変更してからは、柚子関連の商品をネットで調べると「柚子屋本店」がトップに出てくるようになり需要が増えました。14年前に長男が会社を引き継いでからは輸出に力を入れておりまして、柚子ポン酢は業務用も小売用も今では世界40ケ国以上に輸出している状態です。最近は海外からの個人のお客様も増えていると聞いております。
「萩の塩」はどのように名前をつけられたのですか?
友人のアイディアでした。覚えやすい名前が良いのでは…と考え地名(萩)をそのまま使ったのです。
塩作り職人の長岡さん(三見地区の旧製造所)
「萩の塩」はいつ頃から製造されるようになったのですか?
12年前、2009年(平成21年)の9月から「萩の塩」を作り始めました。
なぜ塩作りだったんですか?
私は、「素材を生かす本物の味作り」と、「食と健康」をコンセプトに長年食品製造業に携わってきました。食品作りには良い素材と塩が必要です。この「良い食品」には「良い塩」が必要という信念が「萩の塩」を作る原動力です。起業してから12年になりますが、塩事業の採算性は道半ばです。採算性を考えると「良い塩」作りは難しいです。その主な理由は「良い塩」というのは海水を長時間煮詰めて作る「釜焚き海塩」ですので、人力が必要なので人件費の節約が難しいからです。採算性確保を期待して生産設備の増強をした新工場に今年7月移転しましたが、それでもまだ工夫しなくてはなりません。
本物を追求する想いが強いのはなぜですか?
「本物を追求する」というのは「余分な装いを捨てる」という意味にもなります。食品製造に携わる人が味を追求するのは当たり前ですが、私は添加物に頼らないで味を追求して欲しいと思います。私の本物を追求する思いについてですが、それは在日の生き方にも関係しているように思います。ちょっと理解しにくいかもしれませんが、在日韓国人の多くは日本で本当の自分でいることが難しいです。例えば、本名ではなく通名を名乗るのも装いです。でも、彼らにはそうせざるを得ない理由があります。「本当の自分でいることができない。」というのがその理由です。食品の場合は、価格が安い「素材」や「添加物」、あるいは「調味料」がその装いに当たると思います。私の「本物を追求する」作業は、「きむ」であり続けたい私の無意識の進むべき道なのかもしれません。
どの場所の海水を使用されていますか?
日本海の海水です。採取場所は萩市椿東虎ケ崎の椿群生林の麓です。海水は15km離れた市内の釜場までロータリータンク車で運びます。
*海水の採取場所は萩市虎ケ崎の岩場です。ここは10ヘクタールの椿群生林が隣接しており2万5千本の樹木椿によってつくられる栄養塩類(ミネラル分)が海に染み込む地形です。近くには河川がなく生活排水も流れて来ません。海水は工場に運ばれ直火で40時間ゆっくり焚きます。海水が沸騰して塩分濃度が高まると海水中の不純物が分離しはじめます。この不純物を選り分けて1日何回も除去します。手間がかかりますがこの作業を丹念におこなうことでトゲトゲしさや雑味の少ない良い塩ができます。まろやかで甘みが感じられます。
「萩の塩」の特徴を教えてください。
「萩の塩」は海水を直火で長時間(40時間)煮詰めてつくる釜焚き海塩です。海塩には塩化ナトリウム以外に約90種類の栄養塩類(ミネラル分)が含まれており、甘さのあるまろやかな味わいが特徴です。2019年に出版された「市販食用塩データブック2019年版」(公益財団法人塩事業センター編、成山堂書店)に掲載されている「萩の塩」のページには、製品100g当たりの塩化ナトリウム含有量は86.81gと記されています。残り13.19gが微量元素の栄養塩類なのです。
「萩の塩」の特徴を具体的に述べてみます。
・甘さとまろやかさがあります。
・料理素材の旨味を引き立てます。
・栄養塩類(ミネラル分)が自然のバランスで含まれており、健康的で安心できます。
自然の旨みが凝縮されている塩に合うお料理を教えてください。
塩の特徴が分かるのは、やはりおにぎりです。水に溶かずに塩だけでご飯を握ってみてください。塩化ナトリウム100%の塩と違って塩加減をあまり気にしなくてよいです。焼き魚も同じです。また、豆腐と塩とオリーブオイルで召し上がってみてください。大豆の風味がして豆腐の旨さが分かります。お漬物でもお試しください。「萩の塩」の栄養塩類と、野菜の旨味成分が浸透圧によって均衛に保たれて水分だけ抜け出ます。その結果、野菜の旨味を残しながら微量元素が追加できる仕組みです。他にお勧めは、各種スープや麺類の出汁に用いてみてください。オーソドックスな付け塩としては、てんぷらや豚肉・鶏肉などの蒸し料理が「萩の塩」とよく合います。
三見(さんみ)地区から中ノ倉に移られて、何か変更されたことはありますか?
今年7月、旧三見工場から萩市椿東中ノ倉新工場に移転しました。変更した点は、2つあります。1つ目は移転の目的でもあるのですが、塩の生産量がこれまでの3倍以上増産できることです。塩事業はもっぱら人力に頼っているので、一定の生産量を維持しなければ事業として成り立ちません。三見工場では年間3tでしたが、中ノ倉では年間10tまで可能です。増産は需要に合わせて行いますが、販路は一般ユーザーのほかに大口の食品製造業者に広げたいです。2つ目は、移転する前には考えていなかったことですが、海水を煮詰めるための燃料が無料で入手できる木材から、とても高くつくLPガスに変更したことです。これは、工場周辺の住環境に考慮した排煙対策の結果です。今後は燃料費との関係で採算面を考えていかねばなりません。
塩作りで大変なことはありますか?
塩作りで大変なことは肉体労働であることです。海水を煮詰める間も不純物除去作業があり、塩の結晶ができると塩の重量が脱水や選別工程で負担になります。現在は袋詰め作業も人力に頼っており、身体的にはきついです。しかし、つらい労働をして作った塩が「おいしい」と評価されると、つらさも大きな喜びに変わり癒されます。
「萩の塩」を通してお客様にお伝えしたいことはありますか?
料理は良い素材を選んで「良い塩」を使えば、ほぼ思い通りに仕上がります。味を良くしようと次から次に何か調味料を加えた結果、味が複雑になってしまう場合が多いようです。素材を選んで料理はシンプルに作ることをお勧めします。(料理専門家の先生方に申し添えます。ここでは素人の私が自分の経験から信じるところを述べております。間違ってるところもあると思いますので、箇所があればご指摘の上ご叱責を賜りますようお願い申し上げます。金 優)
⇒【特集】 萩のこだわり調味料 ~古式釜焚き海塩 萩の塩屋~
基本情報
会社名又は個人名
萩の塩屋
住所
〒758-0011 山口県萩市大字椿東字中ノ倉2212-2(工場所在地)
電話番号
0838-24-0011(電話&FAX番号)
URL
http://www.haginosioya.jp
販売場所
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